日本の食糧基地である地方の農村がいま、かつてない危機に瀕しているのをご存知でしょうか。 「後継者不足」や「耕作放棄地」といった言葉はニュースでよく耳にしますが、現場の農家を最も精神的に追い詰めているのは、もっと直接的で、抗いようのない脅威――「気候変動」です。
何十年も畑に向き合い、土を知り尽くしたベテラン農家でさえ、「今年の天気はおかしい」「今までの経験が通用しない」と頭を抱える異常気象。それが引き起こす病気や害虫の大量発生は、収穫直前の野菜を無残なゴミへと変えてしまいます。
その量、年間700万トン。 私たちが普段問題視する「食卓や流通でのフードロス(約460万トン)」よりもずっと多くの野菜が、誰の口にも入ることなく、畑の中で静かに廃棄されているのです。
この「見えないフードロス」という巨大な社会課題に対し、データエンジニアリングという武器一つで立ち向かうスタートアップがあります。 AIによる病害虫予報サービス『TENRYO(テンリョウ)』を展開する、株式会社ミライ菜園。 代表の畠山友史氏に、データがいかにして「農家の勘」を超え、地方の産業を守る盾となっているのか、その挑戦の軌跡を伺いました。

株式会社ミライ菜園 代表取締役 畠山友史氏
1.見えない700万トンの山
キャベツを4つ育てて、無事に出荷できるのは3つだけ。残りの1つは、病気や虫に食われて畑で捨てるしかない――。 これが、日本の農業における偽らざる現実です。
「病害虫被害による収量ロスは、平均で約25%と言われています。丹精込めて育てた作物の4分の1が、収益になる前に消えてしまう。これを量に換算すると700万トンにもなります」 そう語るのは、ミライ菜園の代表取締役・畠山友史氏です。
700万トンという数字の大きさもさることながら、畠山氏が指摘するのは、それが農家のモチベーションと経営に与える深刻なダメージです。 「どんなに良い肥料を使い、手間ひまをかけて高付加価値な野菜を育てても、最後に病気で全滅してしまえば売上はゼロです。農業経営において、まずは『確実に収穫できること』、つまりマイナスをゼロにすることが、収益向上の『一丁目一番地』なんです」
しかし今、その「当たり前に収穫すること」の難易度が、劇的に上がっています。原因は、世界規模で進行する気候変動です。 これまでの農業は、ベテラン農家の頭の中にある「カレンダー」によって支えられていました。「この時期に雨が続いたら、あの病気が出る」「この気温なら、そろそろあの虫が来る」。長年の経験則と勘が、防御の要だったのです。
ところが現在はどうでしょうか。 3月に出るはずの病気が2月に発生する。あるいは、夏だけの害虫が秋まで居座る。さらに、カメムシが例年の80倍も大量発生するような異常事態が頻発しています。 「タイミングも量も、過去のデータが全く参考にならない。教科書通りの対応では守りきれない時代に入ってしまったんです」
「勘と経験」という最強の武器を失った農家たちは、見えない敵に怯えながら、過剰な農薬散布に走るか、あるいはリスクに気づかずに手遅れになるか、厳しい二択を迫られています。 そんな混沌とした状況に、ミライ菜園は「AIによる予報」という第三の選択肢を提示しました。
2. 異端のエンジニア、畑に立つ
そもそもなぜ、データエンジニアリングの専門家たちが農業というフィールドを選んだのでしょうか。 代表の畠山氏は、筑波大学でロボット分野の工学博士号を取得し、日立製作所で公共インフラの開発に携わっていた、バリバリのエンジニアです。農業とは無縁のキャリアを歩んでいました。
「きっかけは、地元の茶畑の風景が変わっていくのを見たことでした。かつて美しかった茶畑が、産業の衰退とともに耕作放棄地になったり、工場に変わったりしていく。その寂しさを感じたとき、自分の持っている工学の知識で、この第一次産業をなんとかできないかと思ったんです」(畠山氏)
しかし、いきなり机上の空論でAIを持ち込むようなことはしませんでした。畠山氏が最初にとった行動は、「農家になること」でした。 創業前、彼はイチゴ農家に弟子入りし、1年間みっちりと農業の現場で汗を流しました。さらに周辺のナス農家など約40軒にヒアリングを重ね、現場の肌感覚を徹底的に叩き込みました。
「そこで分かったのは、農家さんたちが皆、『病気の診断』に困っているという事実でした。病気にはカビ由来のものや細菌由来のものなど様々ありますが、初期症状はどれも似ていて判断が難しい。『これは何の病気だ?』と迷っている間に蔓延してしまう。そこを画像認識AIで解決できるんじゃないか、というのがスタートでした」
こうして生まれたのが、スマホで葉を撮影するだけで病害虫を診断できるアプリ『SCIBAI(サイバイ)』です。 しかし、これはミライ菜園の構想の序章に過ぎませんでした。彼らの真の狙いは、診断の先にある「予報」にあったのです。

3. AI予報『天領』と「早期発見のセンサー」
現在、ミライ菜園の主力サービスとなっているのが、病害虫予報アプリ『TENRYO(テンリョウ)』です。 このアプリは、ユーザーの現在地の気象データと、過去の膨大な発生データを掛け合わせ、向こう1週間の病害虫発生リスクをAIが予測します。 「いつ」「何の病気が」「どれくらいのリスクで」発生するかを可視化することで、農家は先手を打って防除を行うことができます。
しかし、ここで疑問が浮かびます。AIに学習させるための「正解データ(教師データ)」、つまり「いつどこで病気が発生したか」というリアルタイムな情報は、どうやって集めているのでしょうか? 都道府県の防除所が公開している公的なデータもありますが、それだけでは粒度が足りません。
ここで生きてくるのが、前述の診断アプリ『SCIBAI(サイバイ)』の存在です。 実は『SCIBAI』は、家庭菜園を楽しむ一般の方々に多く使われており、累計で5万ダウンロードされています。家庭菜園の方は、プロの農家さんと違って農薬をあまり使いません。つまり、病害虫に対して無防備なんです。 そのため、地域で病気や害虫が流行り始めたとき、真っ先に被害を受けるのは家庭菜園の作物です。ユーザーが「変な虫がついた」とアプリで写真を撮って診断することで、ミライ菜園のもとには「どこで何が発生したか」という最新のデータが集まってきます。 畠山氏はこの家庭菜園からのデータが、地域での流行をいち早く察知する「早期発見のセンサー」として機能すると説明します。プロの農家が農薬で抑え込んでいる間に、無防備な家庭菜園で発生した兆候をキャッチし、地域全体への早期警戒アラートとして活用するのです。 このユニークなデータエコシステムこそが、他社が容易に真似できないミライ菜園の強みとなっています。
さらに、プロ農家自身によるデータ入力のハードルを下げる工夫も徹底しました。 「農作業中にスマホを取り出して、チマチマと入力するのは誰だって面倒くさいですよね。最初は農家さんにも『そんな暇はない』と言われました(笑)。だからこそ、私たちは『5秒』にこだわりました。発見して、タップして、完了。これなら作業の手を止めずに済みます」(畠山氏)
そして、「自分がデータを入れれば、近隣の発生状況も見られるようになる」というギブ・アンド・テイクの仕組みを取り入れました。データ入力が「面倒な作業」から「地域を守るための共有知」へと変わった瞬間でした。

4. AIが「ベテランのプライド」を超えた日
こうして蓄積されたデータとAIの予測モデルは、現場でドラマを生み出しています。 特に象徴的だったのが、日本有数の農業地帯である愛知県での出来事です。
2023年から2024年にかけての冬、この地域は記録的な暖冬に見舞われました。しかし、暖冬といっても四六時中暖かいわけではありません。寒暖差が激しく、人間には「今日は暖かいな」程度にしか感じられない変化でした。 しかし、AIは逃しませんでした。 真冬であるにもかかわらず、ブロッコリーの天敵である「黒すす病」の発生リスクが急上昇していると、『TENRYO(テンリョウ)』が警報を鳴らしたのです。
現場のベテラン農家さんの中には、この警報を信じない方もいました。『こんな寒い時期に黒すす病は出ないだろう』と長年の経験が、AIの判断を否定したのです。その結果、対策をしなかった畑では病気が大発生してしまい、大きな被害が出てしまいました。
一方で、経験の浅い若手農家や、AIを信じて「念のため」と臨時防除を行った農家は、被害をほぼゼロに抑えることができました。 ある若手ブロッコリー農家は、周囲が被害に苦しむ中、単収(単位面積あたりの収穫量)を前年比で15%も伸ばしています。 また、あるベテランのキャベツ農家は、もともと優秀でロス率が5%程度でしたが、AI導入後はそれが1%にまで激減し、99%という驚異的な収穫率を達成しました。
AIの予測が外れていれば笑い話で済んだのですが、当たってしまった。被害に遭われたベテラン農家さんは『AIに負けた、悔しい』とおっしゃっていました。でも、その悔しさが信頼に変わった瞬間でもありました。
これをきっかけにAI予報への信頼が高まり、愛知県内の普及が加速しました。県内でも有数の産地であるJA豊橋では、これまで職員が畑に設置した「フェロモントラップ(虫をおびき寄せるカゴ)」を回収し、虫の数を手作業で数えて発生予察を行っていましたが、2025年度からはこの作業を廃止し、全面的にAI予報へ切り替えることを決定しました。 長年続いたアナログな慣習が、データの信頼性によってDXされた、歴史的な転換点と言えるでしょう。

5.データは、大規模化する農業の「目」になる
ミライ菜園の取り組みは、単なる病気予防にとどまらず、日本の農業構造そのものの課題解決にも繋がっています。 現在、農家の高齢化に伴い、離農する人の農地を引き受ける形で、一軒の農家が管理する耕地面積が急速に拡大しています。いわゆる「大規模化」です。
「畑が100枚、200枚と増えていくと、どんなに優秀な農家さんでも、毎日全ての畑を見回ることは物理的に不可能です。目が行き届かなくなれば、当然病気の発見は遅れ、品質は下がります。大規模化と品質維持はトレードオフの関係にあったのです」(畠山氏)
しかし、AI予報があれば、見回ることができない遠くの畑のリスクも手元のスマホで把握できます。「あそこの畑はリスクが高いから、今日見に行こう」というピンポイントな管理が可能になるのです。 データは、農家の物理的な限界を超え、何百枚もの畑を見守る「目」となります。
おわりに:AI指導員が拓く、地方の未来
取材の最後に、畠山氏に今後の展望を伺いました。 「今後は『AI指導員』のような世界を作りたいと考えています。予報を出すだけでなく、『このリスクなら、この農薬を、このタイミングで撒きましょう』という具体的なアクションまで提案する。そうすれば、農家さんは病害虫の心配から解放され、より美味しい野菜を作ることや、経営戦略を練ることに集中できるようになります」
「TENRYO(テンリョウ)」というサービス名には、「江戸幕府の直轄地(天領)のように、豊かに実る土地になってほしい」という願いが込められているそうです。
地方創生において、データ活用は決して万能薬ではありません。しかし、気候変動という予測困難な課題に対し、これまで経験則だけに頼らざるを得なかった生産者に、データという「客観的な根拠」と「確実な対抗策」を提供することは可能です。
442万トンの野菜を救うミライ菜園の挑戦は、日本の食卓を守り、地方の産業を次世代へ繋ぐための、静かですが力強い革命なのです。
【取材協力】 株式会社ミライ菜園
AIによる病害虫予報サービス『天領』、病害虫診断アプリ『SCIBAI』を開発・運営。 気象データと独自の発生履歴ビッグデータを活用し、農業経営のリスク最小化に取り組む。
企業HP: https://www.mirai-scien.com/









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