「DX推進が叫ばれているが、現場にはデータと呼べるものが残っていない」 「AI人材を雇う予算もなければ、そもそも地方に来てくれるエンジニアがいない」
多くの地方企業や自治体が直面しているのは、華々しい成功事例とはかけ離れた、こうした切実な現実ではないでしょうか。しかし、「整備されたデータがないこと」は、もはや変革を諦める理由にはなりません。
生成AIの登場により、DXの定石は変わりつつあります。必要なのは、高価な基幹システムではなく、現場に散らばる「メモ」や「会話」を価値に変える視点です。
今回は、株式会社農情人を率い、農業という最もアナログな現場で「生成AI×スモールデータ」の実装を続ける甲斐雄一郎氏へのインタビューを通じ、リソースが限られた組織が取るべき「現実的なデータ活用戦略」を紐解きます。
1. 「理論」が通用しない現場で気づいた、IT導入の限界

株式会社農情人 代表取締役 甲斐 雄一郎氏
甲斐氏は、外資系コンサルティングファームでITコンサルタントとしてのキャリアを積んだ後、自身のルーツである農業領域でのビジネスに転身した経歴を持ちます 。しかし、彼が現場で直面したのは、都市部のオフィスで描いた「DXの理想図」が通用しない現実でした。
制御不能な環境と、構造化されていないデータ
「農業の現場では、理論上の最適解が機能しないことが多々あります。天候や気温といった外部環境変数が大きすぎるためです」 。
さらに大きな壁は、情報の管理体制にありました。多くの現場では、重要事項がベテランの頭の中(暗黙知)や手書きのメモ、FAXといったアナログ形式で管理されており、Excelすら十分に活用されていないケースも珍しくありません 。
従来のIT導入のアプローチであれば、「まずは業務プロセスを標準化し、デジタル入力を徹底する」ことから始めます。しかし、高齢化が進む現場において、その「デジタルの入り口」の段差はあまりに高く、結果として「ITは難しい、面倒だ」という拒絶反応を生んでしまっていました 。
甲斐氏が導き出した結論は、現場に変化を強いるのではなく、テクノロジー側が現場の作法に合わせるというアプローチでした。
2. パラダイムシフト:生成AIが「非構造化データ」を資源に変える
2023年以降、生成AIの実用化が進んだことで、甲斐氏の仮説は確信へと変わります。
「ビッグデータ」から「スモールデータ」の活用へ
これまでのAI活用は、大量かつ整理された「ビッグデータ」を前提としていました。対して、甲斐氏が提唱するのは、現場にある「スモールデータ」の活用です。
「生成AIの特異性は、データが整理されていなくても、文脈を補完して理解できる点にあります。手書きの日報、チャットのログ、断片的なメモ。これらをそのまま読み込ませるだけで、意思決定の材料に変換できるのです」 。
データをきれいにするための膨大なコスト(データクレンジング)をかけずとも、ありのままの情報を「使える形」にする。この転換こそが、地方や中小企業にとっての勝機となります。
非エンジニアによる「Vibe Coding」
また、人材不足という課題に対しては、「Vibe Coding(バイブ・コーディング)」という手法を取り入れています 。 これは、詳細な仕様書を書くのではなく、AIと対話(Vibe)しながらプロトタイプを作成する手法です。「現場の困りごと」を言語化できる人間さえいれば、エンジニアがいなくても、課題解決のための簡易的なアプリケーションを構築することが可能になります 。
3. 実践事例:現場の「負」を解消する、静かなる技術介入
では、実際にどのような変革が起きているのでしょうか。甲斐氏が手掛けるプロジェクトの中から、汎用性の高い2つの事例を紹介します。
事例①:みかん農家における「属人性の形式知化」
あるみかん農家では、複数のECサイトでの顧客対応に課題を抱えていました。丁寧な返信を心がけるあまり、文章作成に多大な時間を費やし、それが精神的な負担となっていたのです 。
ここで導入されたのが、生成AIを活用した業務支援ツールです。 特徴的なのは、そのインターフェースのシンプルさです。農家がスマートフォンの画面(問い合わせ内容)をスクリーンショットで撮影し、AIに送信するだけという手段です 。
AIは画像内のテキストを読み取り、事前に学習させた「その農家特有の語り口や価値観」を反映した返信案を複数生成します 。農家はそれらを選択・微修正して送信するだけです。
このプロセスにより、業務時間が短縮されただけでなく、「文章を考える」という心理的ハードルが解消されました 。重要なのは、AIが単なる自動応答ボットではなく、「その人の人柄(コンテキスト)」を理解したパートナーとして機能している点です。これは、自治体の窓口業務や企業の広報業務にも応用可能なアプローチと言えるでしょう。

事例②:酪農データの統合と「対話型インターフェース」
酪農業界では、搾乳量や個体管理データがメーカーごとの異なるシステムに分散しており、統合的な分析が困難という課題があります。
これは、Metagri研究所と連携する島根県出雲市の川上牧場から寄せられた、現場のリアルな声でした。
この課題に対し、農業AIハッカソンに参加した企業が、API連携などで強引に統合するのではなく、生成AIを活用して異なる形式のデータを柔軟に受け入れるアプローチでの開発を進めています。
現在はプロトタイプの段階であり、データを読み込んでデータを可視化する機能の実装までが完了しています。
将来的には、「自然言語でデータと会話できるシステム」を目指しています。「今週、乳量が低下している牛は?」「異常値の原因として考えられるのは?」とAIに問いかけると、AIがデータを横断的に分析し、グラフとテキストで回答するシステムの構築を目指しています。
複雑なダッシュボードを読み解くスキルがなくても、チャット形式であれば誰でもデータにアクセスできる。これは、データリテラシーの格差を埋める有効な手段です。
4. 組織論:「開発者」は社外に求め、「課題」は内部から出す
ツールがいかに進化しても、それを推進する「人」が不足しているという構造的な課題は残ります。この点について、甲斐氏は「外部リソースの活用」と「オープンイノベーション」を推奨しています。
地域課題をハッカソンで解決する
甲斐氏は現在、この農業AIハッカソンのモデルをさらに発展させ、農業に限らず地方が抱える多様な課題を解決する「地方創生×AIハッカソン」の展開を進めています。2026年には茨城県水戸市などと連携し、地元の教育機関や住民と協力しながら、地域発の課題に全国から解決策を募る新たな取り組みを開始する予定です。この取り組みのポイントは、「課題(データ)の提供」と「解決策(開発)」を分離している点です。
- 地域・現場: 解決したい「切実な課題」と、関連する「生データ」を提供する 。
- 外部エンジニア・学生: オンラインで参加し、生成AIを活用して短期間でプロトタイプを開発する 。
「地方にエンジニアが住んでいる必要はありません。リモートワークが定着した今、魅力的な『解くべき課題』さえ提示できれば、全国から優秀な人材がプロジェクトに参加してくれます。」 生成AIは、ここでも「共通言語」として機能します。専門知識がない自治体職員や現場担当者でも、AIを使えば要件定義の素案を作成できるため、外部エンジニアとの協業がスムーズに進むのです 。

5. 提言:まずは「無茶振り」から始めるデータ活用
これからデータ活用に着手しようとする企業や自治体に対し、甲斐氏は「完璧主義を捨てること」を強く勧めます。
1. 課題を「現場の言葉」で書き出す
DXの要件定義と身構える必要はありません。「日報作成が面倒」「この申請書の意図が伝わりにくい」といった、現場の率直な不満や課題をそのまま書き出すことが重要です 。生成AIにとっては、整えられたビジネス用語よりも、現場のリアリティがある言葉の方が、精度の高い解決策を導き出すための良質なプロンプト(指示)となります。
2. AIに対する「検証的な無茶振り」
「まずは、AIに『できないだろう』と思うようなオーダーを投げてみてください」と甲斐氏は語ります。 例えば、複雑な定性データの分析や、前例のない企画の立案などです。AIの限界と可能性を肌感覚で掴むこと。それが、実務への適用イメージを具体化する最短ルートです。
3. 「実装」をゴールにする
きれいなレポートや分析結果を出すことではなく、「現場の行動が変わること」をゴールに設定します。みかん農家の事例のように、「スクショを撮るだけ」といった極限までハードルを下げた実装こそが、定着の鍵となります 。
おわりに:地方から「グローカル」な価値創造を
「データがないから何もできない」という時代は終わりました。むしろ、手つかずのアナログデータが眠る地方現場こそ、生成AIが最も威力を発揮するフロンティアと言えます。
甲斐氏の視線の先にあるのは、単なる業務効率化だけではありません。 「データと生成AIを活用することで、地方の産業を『モノを作る産業』から、『データとストーリーによって高付加価値を生む総合産業』へと進化させる」 。
グローバルなテクノロジーを使いこなし、ローカルな課題を解決する。その先に、持続可能な地方創生の姿が見えてくるはずです。 まずは、お手元の「手書きのメモ」や「散らばったファイル」を、AIという新たなパートナーに読み込ませることから始めてみてはいかがでしょうか。そこには、まだ見ぬ経営資源が埋もれているかもしれません。
【取材協力】株式会社農情人(Metagri研究所)
「農業×情報×人材」をテーマに、生成AIを活用した農業課題の解決や、DAOコミュニティ「Metagri研究所」の運営を行う 。現場の「スモールデータ」とAIを組み合わせる独自の手法で、自治体や農家と共に持続可能な「儲かる農業」の実現と、グローカルな地方創生を推進している 。
企業HP:https://noujoujin.com/








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